遠くの島、徳之島

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島文化体験 - 徳之島「島生活」

この連載の第21回で、中国やインド、タイやバングラディシュなど東南アジア、世界自然遺産登録地のカンボジアの闘牛を紹介しました。

今回は、かつて徳之島と闘牛を通して交流をしていた、韓国清道(チョンド)郡の闘牛について紹介します。当時の清道では、徳之島の牛が日本代表として闘牛大会に出場し、大会を大いに盛り上げていました。しかし、2000年代初頭に発生した「狂牛病」と呼ばれる牛海綿状脳症(BSE)によって、牛を韓国に持って行くことが不可能となったことなどから、闘牛の交流は途絶えています。

〔祝祭行事としての韓国の闘牛〕

清道の闘牛を観戦して最も驚いたのは、その規模の大きさです。「5日間に渡ってトーナメント方式で大会が開催され、一日当たり3万人で延べ15万人が訪れる」などと事前に聞いていましたが、闘牛場を囲むように様々な出店が軒を連ね、飲食店の屋台はもちろん、衣料品店や携帯ショップ、健康測定のコーナーまでありました。闘牛ロデオや闘牛写真展など、家族連れで来ても飽きずに済みそうな施設が揃っているのです。

150802bull chondo写真:満員の闘牛ファンでにぎわう闘牛場

〔カンボジアの闘牛〕

世界遺産として有名なアンコールワットなどがあるカンボジアでは、観光客向けに伝統芸能の影絵芝居「スバエク」が、レストランなどで披露されていました。偶然にもその中に「闘牛の話」があり、非常に驚きました。芝居はカンボジア語で演じられるため、観客にはそれぞれの言語に要約された文章がテーブルに置かれます。紹介文は、次の様な内容でした。

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「闘牛の話」

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カンボジアでは現在、賭けが禁止されています。このお話では、二人の男たちと一人の女性がひと儲けしようとお金を賭けて闘牛をしている場面から話が始まります。しかし、最終的には警察官が駆けつけて彼らを警察署へと連れて行ってしまうのです。

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芝居を観た感じでは、二人の男性が談合して闘牛の稽古を見せ、絶対勝てるからと女性を抱き込み金儲けを企むものの、結果的にその牛が負け「話が違う」と内輪もめを始めて取っ組み合いになり、警察の世話になってしまうという内容のようでした。

島でも「牛はだきだき」とか「させてみないと分からない」と言われています。古来より闘牛を「なくさみ」と呼んでいるのは、全力を出して闘う牛の姿が人を引き付けるからではないでしょうか?

何しろ、相手を選ぶのは主であり、牛も「こんな武器(角)の敵なの!」とか「今日は体調が悪い」などもあるはずですが、殆どの牛は全力を出して闘うからこそ「なくさみ」であり、その姿に人間も励まされるのだと思います。

国が違っても、人々を元気づける力が闘牛にはあるようです。世界遺産登録に向けても、健全な闘牛文化の育成が大事であると感じました。

〔世界遺産と闘牛〕

「奄美・琉球」は世界自然遺産候補地として、世界遺産委員会が認める「世界遺産一覧表」への記載による、世界自然遺産への登録を目指しています。

徳之島の闘牛に関しては、世界遺産登録の直接的な要因ではありませんが、奄美地域の中で「徳之島らしさ」をアピールする観光資源として、島外の観光関連企業などが関心を示しています。

最近では、闘牛大会に合わせて視察に訪れている個人や団体も増えていることから、今後は、闘牛の活用に関する様々な議論や意見交換が行われる事になるのではないでしょうか。

この連載で「世界の闘牛」=アジアの闘牛=として、広く海外でも闘牛が行われており、中国やインド、タイやバングラディシュなどの闘牛を紹介しました。

では、世界遺産登録地ではどうでしょうか?次回は、そのような地域の中でも非常に興味深かったカンボジアの闘牛を紹介します。

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写真:年間100万人以上の観光客が訪れるアンコールワット

〔アジアの闘牛(下)〕

牛の種類の他にも、徳之島の様に勢子が牛の横につくこともなく、両牛の自由に闘わせている地域が多いように見受けられます。闘牛場にしても、木製のリングはまだ良い方で、人間が取り囲んで柵の代わりを務めているような地域もあります。

かつて、日本や海外の闘牛を研究し論文を発表していた成城大学の山田直己教授が徳之島に調査にいらした際に、中国の闘牛に関する話を伺ったことがあり、収穫作業を終えた水田の土手を生かした闘牛場で、農耕に使う牛を持ち寄って闘わせ楽しんでいたとのことでした。

徳之島の闘牛に関する古い写真にも、川の河口らしき場所で大勢の人が囲んで闘牛を観戦しているものがあります。そのような点からもアジアの闘牛には、「牛同士が縄張り争いをする様子見て自然発生的に始まった」とする、闘牛の起源を裏付ける一面が残っているのではないでしょうか。

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写真:インドの闘牛(You tubeより)

〈伝説の名牛の存在3〉

徳之島町亀津の実熊実一さんが所有した初代全島一横綱の「実熊牛」は、44戦42勝1敗1分の金字塔を打ち立て“神様の牛”と称されました。昭和29年9月5日に全島一横綱の座に着くと、昭和31年1月まで3度の防衛したものの、同年7月(6月とする記録もあります)に阿権の「明山牛」に惜敗。しかし、同年11月に「明山牛」にいわゆる「カキィムドシ(かけもどし)」で勝利すると、昭和36年1月まで11度の防衛を果たしました。累計の全島一優勝旗獲得回数16回は、その後も破られることなく前人未到の記録となっています。今後も、この記録を超える牛は出ないだろうと思われます。

※「山田牛」「上岡牛」「実熊牛」の写真は、各牛のご家族よりご提供頂きました。

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〈伝説の名牛の存在2〉

昭和20年代後半に「全島一」と称えられたのが、天城町浅間の上岡清秀氏の「上岡牛」。「ツキの上岡」と呼ばれ、その強さは島内外に知れ渡り、島内学校の全島一周修学旅行のコースにも組み入れられたそうです。あまりの強さに二頭掛けを強いられ。一頭目に勝利後、二頭目と対戦し、敗戦に至ったと伝えられています。

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〔戦後の闘牛〕

闘牛が、庶民の娯楽としての集落行事から様相が変わり始めたのは戦後からと言えます。昭和23年組合規約をつくり、徳之島闘牛組合が設立された。大会毎に入場料を徴収して運営され、戦歴によって番付を決めて行われるようになりました。

昭和42年、徳之島、伊仙、天城の3町に闘牛協会が組織され、これらの協会をまとめる団体として「徳之島闘牛連合会」が作られ、3町闘牛協会の持ち回りで「全島一闘牛大会」が開かれ、興行としての闘牛が定期的に開催されるようになったのです。

〈伝説の名牛の存在1〉
牛主には、父や祖父など先祖の代から闘牛を飼育している方々と、闘牛好きが高じて闘牛を所有するようになった方々とに大きく分けられます。
大変な労力と費用をかけてでも闘牛を持ち続ける理由を聞くと、物心がつき始めた頃に観戦した闘牛大会の印象が大きな影響を与えています。
多くの闘牛ファンを魅了した名牛に憧れ、そのような牛を育て所有したいという欲求が牛を所有する動機に挙げられます。つまり、ファンを引き付ける名牛の存在が、綿々と引き継がれる闘牛を支えて来たと考えられます。
昭和20年代前半、「全島一」と称されたのは現在の徳之島町手々、山田徳宝氏の「山田牛」です。その当時としては恵まれた体格とトガイ角を生かし短期戦で全戦全勝。地元集落民はもとより、戦後の疲弊した島民を元気づけたと言われています。

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元来の闘牛は、集落行事に根付いていたと考えられます。代表的なものは、一日歌い踊り、男子は相撲で力比べをする「浜下り」で、踊りや相撲が始まる前に、農耕用の牛を闘わせて楽しみ「なくさみ」、「牛オーシ」、「牛トロシ」などと呼び、地域に根付いた催しでした。それぞれの集落毎に海岸や河口、収穫作業が終わった水田に闘牛場を作り楽しんでいたそうです。

牛を集めて強さを競う大会は、5月5日や9月9日の休日に合わせ、牛主同士が話し合い川原や浜などに闘牛場を作り行っていました。大会は無料で開かれ、飼育の費用に加え大会出場に伴う飲食物は全て牛主が負担するため、多額の出費が必要でした。そのため、闘牛大会に出場するような闘牛を飼育できるのは富農に限られていました。

徳之島町亀津出身の教育者・龍野定一氏の日記には、闘牛に関連して「短所欠点を長所に」と題し、以下のような記述があります。

「人間には誰にも短所欠点があるものであるが、各自の自由にはたらかして研究工夫すると、その短所欠点あるがゆえに長所が出来ることもあるものである。短所欠点を欺くことなどは人の工夫が足らない証拠でこれは人としての恥である」

とした上で、龍野家で飼育していた闘牛を例に挙げ、

「徳之島ではいつも一番になる優等生も角力や競争に最もすぐれた者でも『あれは大富里のツノキリだ』といい、闘鶏や牛や馬でも常に勝つような強いものを、他国ならば常勝将軍ということを『角切り』というのは大富里の闘牛であるが体格は小さく、一方の角は折れており、普通の牛ならば闘牛などできる牛ではないのである。ところがこの『角切り』はまことにりこうで勇気があり、どんな大きな牛と闘わしても決して恐れずその一本の角ですぐに敵の頭の中心のマキを突くのである。マキを突かれるとどんな牛でもすぐに敗走するので常勝将軍となり、『角切り』という名が常勝将軍という意味に用いられるまでになったのである」と誇らしげに記しています。

当時、闘牛を持つのは経済力のある家の証であり、その中でも強い牛の牛主となることは栄誉だったことが伺えます。その点は、戦前・戦後、現在でも変わらないものがあり、面々と島民に引き継がれていると言えます。その上、牛を闘わせて楽しむだけでなく、ハンデや技から人生訓を生み出し、日常生活の糧にしていた事にも闘牛の持つ魅力が感じられます。