第9回 戦前の闘牛
元来の闘牛は、集落行事に根付いていたと考えられます。代表的なものは、一日歌い踊り、男子は相撲で力比べをする「浜下り」で、踊りや相撲が始まる前に、農耕用の牛を闘わせて楽しみ「なくさみ」、「牛オーシ」、「牛トロシ」などと呼び、地域に根付いた催しでした。それぞれの集落毎に海岸や河口、収穫作業が終わった水田に闘牛場を作り楽しんでいたそうです。
牛を集めて強さを競う大会は、5月5日や9月9日の休日に合わせ、牛主同士が話し合い川原や浜などに闘牛場を作り行っていました。大会は無料で開かれ、飼育の費用に加え大会出場に伴う飲食物は全て牛主が負担するため、多額の出費が必要でした。そのため、闘牛大会に出場するような闘牛を飼育できるのは富農に限られていました。
徳之島町亀津出身の教育者・龍野定一氏の日記には、闘牛に関連して「短所欠点を長所に」と題し、以下のような記述があります。
「人間には誰にも短所欠点があるものであるが、各自の自由にはたらかして研究工夫すると、その短所欠点あるがゆえに長所が出来ることもあるものである。短所欠点を欺くことなどは人の工夫が足らない証拠でこれは人としての恥である」
とした上で、龍野家で飼育していた闘牛を例に挙げ、
「徳之島ではいつも一番になる優等生も角力や競争に最もすぐれた者でも『あれは大富里のツノキリだ』といい、闘鶏や牛や馬でも常に勝つような強いものを、他国ならば常勝将軍ということを『角切り』というのは大富里の闘牛であるが体格は小さく、一方の角は折れており、普通の牛ならば闘牛などできる牛ではないのである。ところがこの『角切り』はまことにりこうで勇気があり、どんな大きな牛と闘わしても決して恐れずその一本の角ですぐに敵の頭の中心のマキを突くのである。マキを突かれるとどんな牛でもすぐに敗走するので常勝将軍となり、『角切り』という名が常勝将軍という意味に用いられるまでになったのである」と誇らしげに記しています。
当時、闘牛を持つのは経済力のある家の証であり、その中でも強い牛の牛主となることは栄誉だったことが伺えます。その点は、戦前・戦後、現在でも変わらないものがあり、面々と島民に引き継がれていると言えます。その上、牛を闘わせて楽しむだけでなく、ハンデや技から人生訓を生み出し、日常生活の糧にしていた事にも闘牛の持つ魅力が感じられます。