遠くの島、徳之島

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牛が好き! - 徳之島「島生活」

〔戦後の闘牛〕

闘牛が、庶民の娯楽としての集落行事から様相が変わり始めたのは戦後からと言えます。昭和23年組合規約をつくり、徳之島闘牛組合が設立された。大会毎に入場料を徴収して運営され、戦歴によって番付を決めて行われるようになりました。

昭和42年、徳之島、伊仙、天城の3町に闘牛協会が組織され、これらの協会をまとめる団体として「徳之島闘牛連合会」が作られ、3町闘牛協会の持ち回りで「全島一闘牛大会」が開かれ、興行としての闘牛が定期的に開催されるようになったのです。

〈伝説の名牛の存在1〉
牛主には、父や祖父など先祖の代から闘牛を飼育している方々と、闘牛好きが高じて闘牛を所有するようになった方々とに大きく分けられます。
大変な労力と費用をかけてでも闘牛を持ち続ける理由を聞くと、物心がつき始めた頃に観戦した闘牛大会の印象が大きな影響を与えています。
多くの闘牛ファンを魅了した名牛に憧れ、そのような牛を育て所有したいという欲求が牛を所有する動機に挙げられます。つまり、ファンを引き付ける名牛の存在が、綿々と引き継がれる闘牛を支えて来たと考えられます。
昭和20年代前半、「全島一」と称されたのは現在の徳之島町手々、山田徳宝氏の「山田牛」です。その当時としては恵まれた体格とトガイ角を生かし短期戦で全戦全勝。地元集落民はもとより、戦後の疲弊した島民を元気づけたと言われています。

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元来の闘牛は、集落行事に根付いていたと考えられます。代表的なものは、一日歌い踊り、男子は相撲で力比べをする「浜下り」で、踊りや相撲が始まる前に、農耕用の牛を闘わせて楽しみ「なくさみ」、「牛オーシ」、「牛トロシ」などと呼び、地域に根付いた催しでした。それぞれの集落毎に海岸や河口、収穫作業が終わった水田に闘牛場を作り楽しんでいたそうです。

牛を集めて強さを競う大会は、5月5日や9月9日の休日に合わせ、牛主同士が話し合い川原や浜などに闘牛場を作り行っていました。大会は無料で開かれ、飼育の費用に加え大会出場に伴う飲食物は全て牛主が負担するため、多額の出費が必要でした。そのため、闘牛大会に出場するような闘牛を飼育できるのは富農に限られていました。

徳之島町亀津出身の教育者・龍野定一氏の日記には、闘牛に関連して「短所欠点を長所に」と題し、以下のような記述があります。

「人間には誰にも短所欠点があるものであるが、各自の自由にはたらかして研究工夫すると、その短所欠点あるがゆえに長所が出来ることもあるものである。短所欠点を欺くことなどは人の工夫が足らない証拠でこれは人としての恥である」

とした上で、龍野家で飼育していた闘牛を例に挙げ、

「徳之島ではいつも一番になる優等生も角力や競争に最もすぐれた者でも『あれは大富里のツノキリだ』といい、闘鶏や牛や馬でも常に勝つような強いものを、他国ならば常勝将軍ということを『角切り』というのは大富里の闘牛であるが体格は小さく、一方の角は折れており、普通の牛ならば闘牛などできる牛ではないのである。ところがこの『角切り』はまことにりこうで勇気があり、どんな大きな牛と闘わしても決して恐れずその一本の角ですぐに敵の頭の中心のマキを突くのである。マキを突かれるとどんな牛でもすぐに敗走するので常勝将軍となり、『角切り』という名が常勝将軍という意味に用いられるまでになったのである」と誇らしげに記しています。

当時、闘牛を持つのは経済力のある家の証であり、その中でも強い牛の牛主となることは栄誉だったことが伺えます。その点は、戦前・戦後、現在でも変わらないものがあり、面々と島民に引き継がれていると言えます。その上、牛を闘わせて楽しむだけでなく、ハンデや技から人生訓を生み出し、日常生活の糧にしていた事にも闘牛の持つ魅力が感じられます。

(1)徳之島闘牛の歴史に関する通説

これまで、徳之島に関する観光パンフレットやガイドブックでは以下のように紹介されてきました。

「闘牛の歴史は古く、薩摩藩政時代から約500年の歴史があると見られている。統治していた薩摩藩により、厳しくサトウキビ生産が統制される砂糖地獄に苦しめられた島の農民が、ようやくの思いで税として完納できた収穫の喜びを祝い、島民の唯一の娯楽だった」。

薩摩藩の琉球侵攻は1609年なので、藩政時代から行われていたと推測するなら、「400年」とすべきで、「500年」とするには「薩摩藩に統治される以前から行われていたと推測される」など、疑問を含めた提示が必要ではないかと機会があるごとに訴えてきました。

それだけでは無いかもしれませんが、最近は400年とするのが定説になってきています。徳之島の闘牛に関しては、住民生活に根付き長年に渡って継続されていることは紛れもない事実であり、住民が特別に意識せずとも、先祖代々から現在まで引き継がれている事に文化的な価値があるものと思われます。

(2)稲作と闘牛

農耕などで使っていた牛が、元々持つ縄張り意識によって闘う様子を見たことから闘牛が始まったとすれば、農耕を通じて人間と牛が係わりだした頃から行われるようになったと考えても不自然ではありません。

沖縄では琉球王朝時代に作られた城(グスク)跡から牛の骨が出土しており、徳之島が琉球王国支配下に入った13世紀以降には、牛が持ち込まれていた推測することもできます。

また、喜界島の城久遺跡で牛の頭骨が出土しており、伊仙町目手久の川嶺辻遺跡では10~15世紀の水田跡とみられる遺構が見つかっています。遺物からで牛骨は発見されなかったものの、農耕で牛が使われていた可能性はありそうです。

(3)奄美地方と徳之島の闘牛

奄美地方の闘牛に関する記録は、1850年に奄美大島に遠島の刑に処せられた名越左源太が記した「南島雑話」に掲載された「闘牛の図」が代表的で、最も古いと言われています。

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「南島雑話」に掲載された「闘牛の図」

牛と牛がぶつかり合う直前の様子と観戦する人々の姿とともに「八月十五日、九月九日の遊日、島中牛を集め闘する、是を牛とらせと云う。闘に弱きは即殺して喰ふ」と記されています。

ここで興味深いのは「闘に弱きは即殺して喰ふ」とする点で、殺生を禁じる仏教の教えもあり、日本において肉食が一般的になるのは明治以降であり、本土と奄美地方の食文化に違いがあったとしても、弱いとはいえ牛を処分することは貴重な労働力を失うことになるはずです。

現在でも闘牛を持つ牛主は「負けた牛は手放す」「闘わない牛は処分する」などと平気で口にしますが、牛主として見栄を張り大げさに発言している面もあります。実際、牛主は闘う内容によって判断し、牛に闘争心があればそう簡単に処分することはありません。

この文面は、闘牛の牛主ならではのプライドから出た発言を、そのまま書き記したと推測されます。牛主の闘牛に対する思いは、その当時から変わっていないとも言えます。

南日本新聞のコラム欄「南風録」で次のような記述を読んだことがあります。「良かれと思ってやったことが、思いもしない悪い結果をもたらす場合がある。毒蛇のハブ退治に期待され、東南アジアから持ち込まれたマングースもそんな一例だ…(省略)」。

果たして、どれだけの人が“マングースはハブを駆除してくれる”と期待したのだろう?沖縄観光した際に「コブラ対マングース」のショーを見たことがありますが、自分の縄張りに入ってきた脅威を除去しようと言う本能であり、野に放たれたマングースが、ハブを探し回り退治してくれるとは到底思えません。

我々も、動物が共通で持つ「縄張り意識」という本能を通じて「闘牛」を楽しんでおり、その本能に対して正しい理解と認識を持つ必要があります。

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写真(上の左)は、野生のアメリカバイソン(別名:バッファロー)のものです。群れで生活する牛は、自らの縄張りに他の群れの牛が入ってきた場合や繁殖期にメスをめぐって、オス同士が闘います。自然発生的なものだからこそ、日本のみならず東アジアや東南アジア、東欧などでも行われており、オスのみならず、メス牛の「女王決定戦」がスイスでは行われているそうです。

子牛も生まれながらに闘う本能を持っています。写真(上の右)は、同一牛舎の数カ月先に生まれた先輩相手に、角も無い頭を突き合わせて一人前に速攻を決めたりするのを写したものです。“闘い”というよりは“じゃれ合い”の様にも見えますが、牛生まれながらに持つ気質を垣間見ることができます。

これまで、「闘牛」と言うとスペインなどで行われているような人間対牛の闘いに対するイメージが圧倒的に強いと言えます。

TVなどで見るのは、派手な衣装で着飾った「マタドール」と呼ばれる闘牛士がムレータ(赤い布)を翻し、突進してくる暴れ牛を左右にいなしながら剣や槍を使ってダメージを与え、牛の攻撃を上手く交わす度に歓声が上がり、見事に牛を仕留めれば大きな拍手が送られるもの。

更には、TVのハプニング映像特集で闘牛士が牛を避け切れずに中に舞い上げられるシーンが放映されるなど、「牛は人間を狙って来る」「赤い物に向かって行く」などの誤った認識が広まったのではないでしょうか。

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牛と人が闘うスペインの闘牛(動画投稿サイトYouTubeより)

未だに、徳之島へ闘牛の取材に来るマスコミ陣から「赤い服は危ないですよね?」「牛が人に向ってきませんか?」などと真顔で聞かれたりすることもあります。その度に、「牛は色盲だと言われています。布に向かうのは、ひらひら動くからだそうです」「スペインでは、棒で叩くなどして人に敵がい心を持つように飼育するそうで、牛の育て方が全く違います」と答えています。

一方、牛同士が闘う闘牛に対する認知度は低く、国内で闘牛が行われている全国6県でも、開催地を離れると「あるらしい」とか、「聞いたことがある」程度の認識でした。

ところが近年では、徳之島に限らず各県の闘牛がマスコミで取り上げられる事が多くなり、牛と牛が闘う「闘牛」の認知度は格段に増したと感じます。特に沖縄では、対戦開始前にダンスショーやキャラクターショー、祭り闘牛が入場料無料で開かれるなど、観光資源として活用しようとする動きが強くなっています。

ところで、かつては「国技」として人気を博したスペインの闘牛ですが、動物愛護の観点から批判が強まり、人気低下と共に開催数が減ってTV中継が終了するなど、衰退傾向が強まっていると聞きます。

日本の闘牛に目を向けると、認知度が高くなった事により、闘牛を見たいとの要望から2~3組程度の稽古闘牛を披露するケースがオフシーズンに見られるようになり、闘牛大会に限らず、牛の散歩や飼育の様子を見たいと言う観光客も増えています。

闘牛が身近にある我々は、車でドライブ中に散歩する牛を見かけたら、スピードを落として追い越し、むやみに近づかないものですが、観光客にはそのような感覚が無いようです。車を止めて写真を撮り、牛舎の横に繋いでいる牛に平気で触り、角を掴んで写真を撮るような強者もいました。

このような認識の変化を意識すべきと感じています。長年闘牛を飼育している先輩方は「どんなに大人しい牛も“畜生”である以上、注意を怠るな」と言います。観光客には、危険が伴うことを伝え警告をすべきです。闘牛が身近にあるからこそ、闘牛の飼育者や関係者に限らず、我々住民も十分配慮する必要があると思います。

そのような古来の牛の姿を現在でも留めているとされるのが、山口県萩市の見島のみで飼育されている「見島牛」と鹿児島県トカラ列島の口之島に残る「口之島牛」で、見島牛の産地は国の天然記念物に指定され種の保存と継承に取り組んでいるそうです。

02mishimaushi古来の姿を留める「見島牛」(山口県農林総合技術センター畜産技術部のホームページより)

口之島牛は、島で放牧していた牛が明治以前(大正初期とする説もある)に野生化したもので、体高はオスでも120cm程度で現在の牛より随分小さい事が分かります。

03kuchinoshimaushi野生牛に近い「口之島牛」(名古屋大学大学院の設楽フィールドのホームページより)

口之島牛に限らず、トカラ列島では野生に近い状態で牛が放牧されるため、小柄ながら足腰が丈夫で気性も荒いとして、徳之島にも長年に渡って“十島産”が闘牛として導入されており、大型牛隆盛の現在ではその頭数こそ減っているものの、多くの名牛が活躍してきました。

牛は稲作の広がりとともに、弥生時代に朝鮮半島経由で日本に持ち込まれたという説が有力ですが、その裏付けとされているのは、東京都港区の弥生時代中期の遺跡、伊皿子貝塚で見つかった牛の頭の骨で、和牛の祖先の骨で最も古いとされています。

一方、近畿以西の縄文・弥生時代の遺跡から牛の骨は見つかっておらず、5世紀以降の地層などからの出土数が多くなるため、朝鮮や中国大陸からの渡来人が牛の管理技術とともに家畜としてもたらしたという説が学者らによって唱えられています。

徳之島で発掘された古代の遺跡では、獣骨としてイノシシの骨は出土するものの牛骨は見つかっていないため、島に牛が導入された時期は交易などのあった地域との関連から推測せざるを得ないため、日本に持ち込まれた牛がどのように広まったかという点から考察します。

古来に持ち込まれた牛は、乳牛や肉用牛として品種改良された現在の牛とはずいぶん異なる事が分かります。非常に興味深いのが、鎌倉時代後期の1310年(延慶3年)に寧直麿によって描かれた「国牛十図」です。西は筑紫から北は越後まで10種の優れている産地牛を紹介するもので、黒や褐色の毛色を持つ牛、島では「パンダ牛」と呼ばれる牛に近いような白黒斑を持つ牛も描かれています。

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国牛十図に描かれた牛(奥州市牛の博物館・黒澤弥悦氏著「モノが語る牛と人間の文化」より)

牛は稲作の広がりとともに、弥生時代に朝鮮半島経由で日本に持ち込まれたという説が有力ですが、その裏付けとされているのは、東京都港区の弥生時代中期の遺跡、伊皿子貝塚で見つかった牛の頭の骨で、和牛の祖先の骨で最も古いとされています。

一方、近畿以西の縄文・弥生時代の遺跡から牛の骨は見つかっておらず、5世紀以降の地層などからの出土数が多くなるため、朝鮮や中国大陸からの渡来人が牛の管理技術とともに家畜としてもたらしたという説が学者らによって唱えられています。

徳之島で発掘された古代の遺跡では、獣骨としてイノシシの骨は出土するものの牛骨は見つかっていないため、島に牛が導入された時期は交易などのあった地域との関連から推測せざるを得ないため、日本に持ち込まれた牛がどのように広まったかという点から考察します。

古来に持ち込まれた牛は、乳牛や肉用牛として品種改良された現在の牛とはずいぶん異なる事が分かります。非常に興味深いのが、鎌倉時代後期の1310年(延慶3年)に寧直麿によって描かれた「国牛十図」です。西は筑紫から北は越後まで10種の優れている産地牛を紹介するもので、黒や褐色の毛色を持つ牛、島では「パンダ牛」と呼ばれる牛に近いような白黒斑を持つ牛も描かれています。

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国牛十図に描かれた牛(奥州市牛の博物館・黒澤弥悦氏著「モノが語る牛と人間の文化」より)

全国では、岩手県久慈市(旧山形村)、新潟県長岡市(旧山古志村)と小千谷市、島根県の隠岐の島、愛媛県の宇和島市と南宇和郡、沖縄県の本島と石垣島、与那国島でも闘牛大会が行われていますが、それら全国6県の中でも「徳之島が一番熱い」と言われます。

その理由として、愛牛のためにどのような労力もいとわない牛主の情熱、闘牛ファンの熱狂ぶりはもちろん、島民にとって身近な存在として長い間連綿と引き継がれてきたことなどが上げられますが、徳之島闘牛に関する資料が乏しく、起源や歴史については不明な点が多いのも確かです。

全国の闘牛所の中でも最も古い歴史持つとされるのが、島根県隠岐の島の闘牛(牛突き)で、承久の乱(承久3年・1221年)に敗れ、隠岐の島に流された後鳥羽上皇が、角を突き合わせている小牛に興味を持たれたことから、上皇を慰めるために始めたのを起源として790年の歴史を誇ると謳っています。

では、それ以外の地域では闘牛はなかったのでしょうか?日本には稲作の広がりとともに、弥生時代に牛が朝鮮半島経由で持ち込まれたという説が有力です。そこで調べてみると、国宝で日本最古の漫画とも称される「鳥獣人物戯画」の中に「争う牛」、つまり「闘牛」が描かれているのが分かりました。

鳥獣人物戯画(乙)同画は人間をカエルに例え滑稽な姿で歌い踊っている絵が教科書にも引用され知られているが、それらには甲・乙・丙・丁の全4巻あり、様々な動物の生態が描かれている乙巻の中に見ることが出来ます。その成立は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけてとされているので、800年程前には、闘う牛の姿を見る事ができたということではないでしょうか。

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闘牛場に響き渡る歓声。鳴り響く太鼓やラッパ…何故に徳之島の人々は、これほどまでに闘牛に熱狂するのか?私が徳之島で闘牛大会を観戦するようになったのは、平成5年から。闘牛の「と」の字も知らなかったのが、その魅力にどっぷり浸かり、インターネットを通じた情報発信までするようになりました。

それは、徳之島闘牛ならでは迫力、牛と勢子(闘牛士)が一体となって繰り広げる攻防。その一挙手一投足を見つめ、熱い声援と視線を送る人々の姿にあると感じます。

大会には700kg台の小型牛から1トンを越える大型牛が揃い踏みし、直径約20メートルのリング内でぶつかり合いを展開します。幼児から高齢者まで、島内人口の一割を超える3,000人余りの老若男女が詰めかけ、突き技や角掛け、懐に飛び込んでの速攻など技の応酬に熱狂し、好勝負や激戦になればなるほど、指笛とともに場内からの歓声も響き渡ります。勝利の瞬間、声援を送っていた応援団が場内になだれ込み、我を忘れたように手舞や足舞で歓喜する姿は圧巻です。

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何故?ここまで!徳之島の人々は闘牛に熱狂するのか?全国でも「最も熱い!」と言われる徳之島の闘牛について、このブログを通じて考察して行きたいと思います。